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一方で、オーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。フランシス1世の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしで方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くいくらも進まないうちにナポレオンがパリから到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍はエックミュールの戦いに敗れ、ドナウ川を越えて逃亡し、ラティスボンの要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、この問題の解決のために新たな方面作戦が必要となった。フランス軍はウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続くアスペルン・エスリンクの戦いに敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたるヴァグラムの戦いで勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果10月にシェーンブルンの和約が結ばれた。大陸軍は第五次対仏大同盟を終わらせ、ワラント
帝国は領土割譲の結果、3百万人の領民を失った。[25]
スペインを除いて一時的な平和が続いた。しかし、ロシアとの外向的な緊張関係が高まり、1812年のくりっく365
につながった。ナポレオンはこの脅威に対処するためにこれまでにない最大の軍隊を結成した
新しい大陸軍はそれまでと変わっていた。士官の半分以上はフランスと同盟する衛星諸国と地方から徴兵した非フランス人で占められた。巨大な軍隊は1812年6月23日にネマン川を越え、ナポレオンは迅速に行軍すればロシアの2つの主力部隊、ミハイル・バルクライ・ド・トーリ軍とピョートル・バグラチオン軍の間に割って入れることを期待していた。しかしロシア軍が3回以上もナポレオンの鉾先を避ける事態になり、ナポレオン軍にイライラが溜まっていった。モスクワを守る最後の防衛戦として9月7日にボロジノの戦いが行われた。その結果は、大陸軍が勝ったもののほぼ間違いなく犠牲が多くて引き合わない勝利だった。ボロジノの7日後、大陸軍はモスクワに入ったが、そこにはもぬけの空で炎上する町があるだけだった。兵士達は消火活動の一方で放火犯狩りをやり、モスクワの歴史的地区の守りも強いられた。フランスが無為にロシア皇帝に和平の探りを入れている間、ナポレオンとその軍隊はモスクワで1ヶ月以上を過ごした。この試みが失敗に終わると、10月19日、フランス軍は以前の姿の裏返し、すなわち撤退を開始した。壮大なロシアの冬の撤退というのが一般的なこの戦争の認識であるが、フランス軍の半分以上は夏の間にすでに失われていた。フランス軍は集まってくるロシア軍に繰り返し襲撃された。ミシェル・ネイが有名な殿軍を引き受け、ロシア軍との間の分離を図ったがベレジナ川に到着したのは、約49,000名の兵士と40,000名の戦闘には使えない落伍者に過ぎなかった。ベレジナの戦いの結果とジャン・バプティスト・エーブレの技師達のとてつもない作業で、ナポレオン軍の残兵が救われた。ナポレオンは新しい軍を起こすことと政治的な用向きを果たすために兵を残してパリに帰った。軍を起こした時の690,000名の兵士のうち、93,000名のみが生還した。[26]
ロシアにおける破滅的状況はドイツやオーストリアの反仏感情を高めることになった。第六次対仏大同盟が結成され、ドイツが次の方面作戦の中心となった。培われた才能によってナポレオンは新しい軍隊を立ち上げ先端を開き、リュッツェンの戦いとバウツェンの戦いで連勝した。しかしロシア遠征のためにフランス軍の騎兵の質が落ちていたこと、また部下の将軍の計算違いにより、これらの勝利は決定的に戦争を終わらせるだけのものにならず、休戦になっただけだった。ナポレオンはこの休戦を利用して彼の軍隊の質と量を高めようとしたが、オーストリアが同盟に参加したとき、彼の戦略的立場が暗いものになった。8月に再び戦争が始まり、2日間のドレスデンの戦いでフランスは意味のある勝利を収めた。しかし、ナポレオンとの直接対決を避け、彼の部下に矛先を向けるという同盟側のトラチェンブルグ計画の採用により、フランスはカッツバッハの戦い、クルムの戦い、グロスベーレンの戦い、デネビッツの戦いと負け続けた。
同盟軍の数が増え、フランス軍をライプツィヒで包囲した。有名な3日間の諸国民の戦いが行われ、橋が時期尚早に壊されたために、エルスター川の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、ハナウの戦いでフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立したババリア軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。[27]
「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ」とナポレオンは1813年の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置に来ていた。同盟軍はピレネー山脈から、北イタリア平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンがラ・ロシエールで敗北を喫したときに不気味に始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。1814年の6日間戦争で30,000名のフランス軍がゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、カール・フィリップ・フルスト・ツー・シュワルツェンベルクをモントローの戦いで破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、ラン(Laon)の戦いとアルシス・シュル・アウベの戦いでのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、パリの戦いで同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、1814年4月6日、皇帝に退位を迫り認めさせた。[28]
1815年2月エルバ島から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍(L'Armee du Nord)は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、ベルギーにいるウェリントンやブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを望んだ。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日にはリニーの戦いで外為
を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。エマニュエル・ド・グルーシーが対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、ワーテルローの戦いでウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった
大陸封鎖令(たいりくふうされい、Continental System, Continental Blockade)とは、フランス帝国とその同盟国の支配者になったナポレオン1世が、その当時産業革命中のイギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年に発令した経済封鎖命令である。ベルリンで発令されたのでベルリン勅令とも言う。
1806年11月21日に外為
されたが、フランス国民とフランスの同盟国との軋轢を生み、かえってナポレオンに対する敵愾心を強める結果となってしまった。不動産投資
に従属した欧州諸国や北欧は大陸封鎖に参加を余儀なくされた。しかし大陸諸国は豊かな経済力をもつイギリスと通商が出来なくなったため、経済的困窮を招くことになってしまった。 逆にイギリスはフランスを封じ込めるために海上封鎖に出たことで、当初中立を宣言していたアメリカと利害が対立し、1812年に米英戦争が勃発した。イギリス側も全く無傷だった訳ではない。次第に経済は不況となり、フランス側の私掠船が暗躍し、商船は略奪され、国内では国民の暴動、首相スペンサー・パーシヴァルの暗殺、英国国王ジョージ3世の発狂、そして米英戦争と「イギリス史上最も困難な局面」を迎えたのである。 フランスはある程度の成功を見たが、その同盟国はイギリスの不況を被り、その恩恵を受けることが出来ず不満や不平がのし掛かっていくこととなった。
大陸封鎖令は欧州では甚だ人気が無く、反ナポレオン政策を取ったスウェーデンが拒否する。しかしナポレオンはロシア帝国をけしかけ、スウェーデンを屈服させて封鎖令に参加させる。だが離反国は後を絶たず、ポルトガルが協力を渋った。ゆえにナポレオンはイベリア半島への派兵を決断したが、そのためにスペインの政争に介入せざるを得なくなり、イベリア半島戦争の泥沼に巻き込まれていく。効果の上がらない大陸封鎖の実状を見て取ったロシア帝国は、1810年、大陸封鎖令を破りイギリスと通商を開始する。ナポレオン1世は法令を破ったロシアを見せしめとして成敗しようとロシア遠征(1812年)を企てたが、ロシア側の焦土作戦などで大敗を喫し、没落を招く結果となった。
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