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大陸封鎖はもともと次のような矛盾をはらんでいた。 これはイギリスに代わるフランス産業の大陸市場独占であり、軍事支配と絡んでフランスの従属政策への不満が強まる。 イギリスほど機械化の進んでいないフランス産業は、イギリスに代わる役割を果たすことが出来ない。 大陸諸国家は貿易を基盤とするオランダやハンザ都市、農業国のロシア、プロイセン、イタリア、スペイン、工業の比較的発達した西南ドイツなど多様な国民経済を持ち、それらはイギリスとの貿易関係を抜きにしては存在できない。 総体的に見れば、1806年以降のナポレオンの戦争は全て大陸封鎖令に関わっている。つまりイギリスからの貨物の荷揚げを阻止しようとすれば、欧州諸国を力尽くでも大陸封鎖令に協力させねばならなくなり、この戦略にしたがってドイツ、ローマ、イベリア半島、ロシアと言った諸国に大陸軍による侵攻をかける事になったのである。ナポレオン戦争の一面にはこの様な経済的要因も絡み、単なるナポレオンによる欧州征服の野心のみで行なわれた訳ではなかった。結果ナポレオンはその論的帰結として帝国の拡張に走らざるを得なくなり、大陸封鎖令とそれに伴うイギリスとの確執がナポレオンの没落の決定的な要因となったのである。 チザルピーナ共和国(チザルピーナきょうわこく、伊:Repubblica Cisalpina)は、1797年から1802年までイタリア北部に存在したフランスの衛星国である。1802年にイタリア共和国と改称。1805年にイタリア王国へ移行した。国名は古代ローマ時代の北部イタリアの呼称、ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリア)に由来する。 1796年、ナポレオン・ボナパルトはイタリア遠征によって占領した北イタリアにチスパダーナ共和国とトランスパダーナ共和国を建国した。両共和国は1797年6月29日に統合され、チザルピーナ共和国へ移行した。1797年10月17日には、共和国はカンポ・フォルミオ条約(カンポ・フォルミオの和約)によってオーストリア(ハプスブルク家)に承認された。 共和国の首都はミラノ。外国為替 には4万2,500平方キロの国土と、人口324万人を有していた。FX 区画として20の県が置かれていた。1799年にはオーストリア軍によって全土が占領されるが、1800年のマレンゴの戦いの後に再建された。 1802年1月26日、チザルピーナ共和国はイタリア共和国と改称した。さらに、フランス第一帝政の成立に伴って1805年に傀儡国家イタリア王国へ移行し、皇帝ナポレオンがイタリア王を兼務した。また、その養子ウジェーヌ・ド・ボアルネが副王となり、王国を実質的に統治した。1814年、ナポレオンの敗北とともに消滅した。 ティルジットの和約(ティルジットのわやく, 仏:Paix de Tilsit, 英:Peace of Tilsit)は、ナポレオン戦争中の1807年7月に、東プロイセンのネマン川沿いの町ティルジット(現・ロシア連邦カリーニングラード州ソヴィェツク)で結ばれた講和条約である。ティルジット講和条約(ティルジットこうわじょうやく, 仏:Traite de Tilsit, 英:Treaties of Tilsit)とも呼ばれる。7月7日にフランスとロシアが、7月9日にフランスとプロイセンが条約を締結した。和約により、プロイセンは国際社会での地位を後退させ、フランスとロシアとの間には協調関係が成立した。 1806年、プロイセンはイギリスやロシアなどと第四次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦布告するが、10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅した。ロシア軍がプロイセンの救援に赴くが、1807年2月7日-8日のアイラウの戦いでフランス軍と引き分けた後、6月14日のフリートラントの戦いでやはり決定的打撃を受けた。6月21日に3か国の間で休戦協定が締結され、6月25日にはフランス皇帝ナポレオン1世とロシア皇帝アレクサンドル1世が、講和に向けて、プロイセン・ロシア国境のネマン川に浮かぶいかだの上で会談した。 7月に合意された講和条約により、FX はエルベ川以西の領土とポーランドを失い、ザクセン王国とロシアにも領土を割譲させられた。これによりプロイセンの人口は900万人から400万人に縮小した。陸軍は4万人に制限され、さらに1億2,000万フランの賠償金を課せられ、賠償金の支払いが終わるまでのフランス軍の駐留を認めさせられた。エルベ川以西のプロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が置かれ、国王にはナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトが即位した。ポーランド分割によって独立を喪失していたポーランドはワルシャワ公国として復活し、君主にはザクセン国王のフリードリヒ・アウグスト1世が就いた。 ロシアは第四次対仏大同盟からFX し、対イギリスの経済封鎖である大陸封鎖令に参加した。また、ロシアがイギリスへ宣戦することが確認された(英露戦争)。スウェーデンに対しては、大陸封鎖令に参加させるためにロシアが圧力をかけることとされ、引き換えにその後のロシアによるフィンランドの獲得(1809年)が容認された(第二次ロシア・スウェーデン戦争)。地中海では、カンポ・フォルミオの和約によってフランス領となったもののロシア海軍が占領していたイオニア諸島がフランスへ返還された。 トーマス・トラウブリッジ(英:Sir Thomas Troubridge, 1st Baronet、1758年 - 1807年)はイギリスの提督、政治家。初代準男爵。 トラウブリッジはロンドンのセントポール校で教育を受けた。彼は1773年に海軍に入り、ネルソンらとともに東インドのフリゲート、シーホースで勤務した。彼は1785年にヒューズ提督の旗艦スルタンの艦長として本国に戻る。1794年3月にフリゲートカスターの艦長となるが、彼とカストルは船団の護衛任務中にフランスに捕獲されてしまう。しかしすぐに解放され、3等戦列艦カローデンの艦長に任命される。そしてサン・ビセンテ岬の海戦には先頭艦として参加し、彼の勇気と積極性はジョン・ジャーヴィス提督の賞賛を浴びた。1797年にはネルソンのテネリフェ島攻撃に参加するが、これは失敗に終わる。1798年のナイルの海戦にも加わったが、カローデンがアブキール湾口で座礁してしまったため彼は戦闘に寄与することが出来なかった。しかしながらネルソンの要望により彼も勝利の記念メダルを受けた。 その後もトラウブリッジは地中海艦隊で任務につき、1799年に準男爵に叙せられる。1801年には海軍本部委員に任命され1804年まで勤務した。委員を退職する際には少将に任ぜられている。翌年には東インド海域の東半分の指揮官となり、戦列艦ブレニムに乗りインドと向かう。しかし、彼が航海している間に任地は喜望峰へと変更されていた。トラウブリッジは1807年1月に喜望峰へ出航するが、彼と乗組員はその後行方不明になった。老朽化していたブレニムはマダガスカル沖で遭遇したサイクロンを耐えることが出来ずに沈没したものと考えられている。 ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1758年9月29日 - 1805年10月21日)は、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督。トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、それと引き換えに自身は戦死した。 ノーフォーク、バーナム・ソープ村の教区牧師の第六子として生まれた。母方の叔父のモリス・サクリングが海軍の軍人であった。ウォルポールとも遠縁にあたる。12歳の時(1770年)、父が病床にあり家計が逼迫していたこともあって、戦列艦の艦長だった叔父を頼って海軍に入り、北洋探検航海などに参加した。1774年から東インド方面に勤務するが、マラリアにかかって帰国する。 1777年、海尉昇進試験に合格。翌1778年には海尉艦長として初めての指揮艦を得る。1779年に21歳で勅任艦長となる。1784年、最先任艦長(副司令官格)として小アンティル諸島の鎮守府に赴任。独立後間もなかったアメリカ商船の取り扱いなどをめぐって、現地の上官や農場主たちとの間で摩擦を起こす。1787年、西インド諸島のネヴィス島で知り合った、未亡人フランシス・ニズベットと結婚。 1793年、フランス革命戦争の勃発により、戦列艦アガメムノンの艦長に任ぜられ、地中海方面に展開。10月にフランス艦との戦闘を初めて経験する。1794年、コルシカ島で陸上戦闘を指揮し、カルヴィ攻略戦で右目の視力を失った。 1796年、新任の地中海艦隊司令官ジョン・ジャーヴィスのもとで戦隊司令官に任ぜられる。1797年、サン・ビセンテ岬の海戦に参加。後方の戦列を担っていたが、艦隊司令官の命令を無視して逃走するスペイン艦隊へ突入、激しい砲火をまじえ、結果として2隻の敵艦を拿捕した。この功績でバス勲爵士に叙せられ、青色艦隊少将へ昇進する。 同年、カナリア諸島のテネリフェ島の攻略に失敗する。戦闘で右腕を負傷し切断。こうして隻眼隻腕の提督となった。 1798年、地中海分遣艦隊を率いてツーロンで、エジプト遠征を企てるナポレオンのフランス艦隊の封鎖任務にあたるが、嵐をさけて寄港していた隙に仏艦隊の出港を許してしまう。その後も追跡を続けたが、フリゲートの不足などの悪条件もあって、結果的にナポレオンのエジプト上陸、アレクサンドリア入城を許すことになった。 しかし、アブキール湾停留中だったフランス艦隊を発見すると、浅瀬を背にして縦陣をしく当時としては万全とされていた防御姿勢をとる同艦隊に対して、自分の艦隊を艦と艦の間をすりぬけさせ、狭撃するという戦術でこれを撃滅してのけた(ナイルの海戦)。この海戦の敗退によって、フランス海軍には、ネルソン恐怖症が広がり、後にトラファルガーにまで引きずることになる。 これにより、ナポレオンはヨーロッパへの帰路を絶たれエジプトに孤立し、やがてその東方進出の野心は潰えることになる。ネルソンはこの戦功によって「ナイル及びパーナム・ソープのネルソン男爵」に叙せられる。 1801年、青色艦隊中将に昇進。副司令官としてコペンハーゲンの海戦を指揮。あまりの激戦に司令官であるハイド・パーカーが「戦闘中止」を命じた信号旗を、見えない右目に望遠鏡を当てて黙殺した逸話が有名だが、厳密にいうとこれは「必要なら戦闘中止せよ」の信号を、副司令官のネルソンがその必要なしと各艦に転送しなかったということである(ちなみに、これは黙殺したネルソンをパーカーが庇った、という説もある)。ともあれ、それほどの戦いを辛くも勝利し、彼は戦功によって子爵に叙せられる。 1805年、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガー岬沖に捕捉、二列の縦陣で敵艦隊に接近戦を挑む、いわゆる「ネルソン・タッチ」で勝利をおさめる。 戦闘開始を告げ、兵士たちを鼓舞した“England expects that every man will do his duty”(英国は各員がその義務を全うすることを期待する)の信号旗は、現在も名文句として残る。ネルソン自身は“Nelson convinced that every man will do his duty”(ネルソンは各員がその義務を全うすることを確信する)としたかったのだが、続けて「接近戦を行え」の指示を送らなくてはならなかったので、信号士官の進言を受け、より少ない旗ですばやく信号をおくれる、「英国は〜期待する」の方を採用したものだった。後に名文句となるも、命令的で尊大な文章であるため、この時は「いまさら言われなくても義務は果たしている」と不満の声があがったり、水兵の士気に悪影響を与えると考えて、内容を伝達しなかった艦長もいた。次席指揮官のカスバート・コリングウッドは、戦闘開始寸前に、戦闘指揮とは関係無い信号の伝達に不満を感じたと書き残している。