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半島戦争(はんとうせんそう、1808年 - 1814年)(英:Peninsular War(半島戦争)、西:Guerra de la Independencia Espanola(スペイン独立戦争)、葡:Guerra Peninsular(半島戦争)、仏:Guerre d'Espagne(スペイン戦争)カタルーニャ語:Guerra del Frances(フランス戦争))はナポレオン戦争中イベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍が共にフランス帝国軍に対して戦った大戦争である。日本ではスペイン独立戦争(上記スペイン語参照)として知られている。この戦争は「ハンマーと金敷」の役に擬えられている。すなわち「ハンマー」とはウェリントン公に率いられた4万から8万の軍勢からなる英葡軍であり、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍の上でフランス軍が打ちのめされたのである。 戦争は、イベリア半島の性質に大きく左右された。土地が貧しいイベリア半島では大軍が侵攻しても侵攻先の食料が足りないため、フランス軍はピーク時で3万を数えたものの、軍を集結させることができなかった。小部隊による幾つかの地域で限られた期間での戦闘を求められ、決定的な結果を出すのには困難を極めた。 「1808年5月2日-マムルーク(奴隷兵)たちの攻撃」 ゴヤ作 (1814年)この戦争はスペインとポルトガルの社会的、経済的構造を破壊し、1850年まで続く大内戦と半島戦争で訓練された将校に導かれた荒れ狂う解放の時代のさきがけになった。また、この戦争をきっかけにしてポルトガル、スペインの植民地だったラテンアメリカに独立運動が起きた。 ゴヤの「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での資産運用 」ゴヤはフランス軍による市民の虐殺をこの絵で激しく非難した。 1806年にナポレオン1世は、大陸諸国から英国への輸入を禁じる、大陸封鎖令をベルリンで宣言した。中立を維持する2つの国(スウェーデンとポルトガル)は、ナポレオンの通牒をむなしく拒もうとした。1807年のティルジット条約の後、スウェーデンはロシア帝国と戦うことになり、その時には東方に憂いはなくなり、ナポレオンはイベリア半島の港の攻略を決定した。1807年11月、大陸同盟参加に摂政ジョアン王子(後のジョアン6世)が難色をしめしたのを受けて、ポルトガル侵略の任務を帯びたジャン=アンドシュ・ジュノー指揮下の陸軍をスペインに送った。同時に、スペイン首相ゴドイがナポレオンの委任を受けて、デュポン将軍をカディス方面に送り、スールト将軍をコルナ方面に送った。スペインの2個師団は対立するポルトガルを占領しようと、艦隊奪取を目論みフランス軍と合流した。リスボンは、ポルトガル陸軍がイギリス軍の攻撃から港湾と海岸を護るのに配置されていたため、軍事的抵抗もないまま、12月1日に攻略された。11月29日にポルトガル王妃と摂政と6000人の人々(艦隊の9000人の船員がそれに加わる)が逃亡したことは、ジョアン王子にブラジルを含む海外の植民地の統治の継続を可能とした。それはナポレオンにとって大きな打撃となり、そのことはセント・ヘレナ島の記念碑に「これが私を滅ぼした。(C'est ca qui m'a perdu)」と記されている。 仏・西軍のポルトガル占領を補強する個人向け国債 として、ナポレオンは軍をスペインの要衝に派兵し始めた。結果パンプローナとバルセロナが1808年2月に占領された。スペインでは貴族が政変でカルロス4世を退位させ、代わってフェルナンド王子がフェルナンド7世として即位した。ナポレオンはスペイン王家をバイヨンヌに追放して、5月5日に2人に退位を強制し、スペイン王位を自分の兄ジョゼフに与えたのである。傀儡のスペイン議会はこの新王を承認した。ジョゼフ改めスペイン王ホセ1世が改革を断行するためにスペイン統治を強化しようとすると、フランス人支配を嫌う人民の反乱を引き起こすことになった。5月2日、マドリードの市民は、フランスの占領に対して、暴動を起こしたのである。しかしこの蜂起はミュラによって粉砕された。 それまでイギリスはヨーロッパ大陸における軍事作戦で中途半端なへまと相次ぐ敗戦で(1809年のワルヒェレン遠征を最後に)面目を失うというのが特徴だった。強力な同盟なしではイギリス陸軍はフランスに対して十分な作戦をできず、イギリスはヨーロッパ大陸からの撤退を余儀なくされてきた。そういうわけで、ポルトガルは対ナポレオン戦争でイギリスが支援するのを拒否したのである。 スペイン軍は、5月19日から21日にかけてのバイレーンの戦いでピエール・デュポン指揮のフランス軍に対し劇的な勝利をおさめ、15000人以上の捕虜を得た。6月18日にはポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルとスペインでの人民の反乱は、イギリスに再び事実上の軍事行動を起こす誘惑を掻き立て、初めて王侯貴族でなく人民が「大いなる侵略者」に反乱を起こしたというイギリスの宣伝で、すぐさま珍しい状況をもたらした。 1808年8月にイギリス軍はipo アーサー・ウェルズリー卿指揮のもと、ポルトガルに上陸した。ポルトガルのベルナルディム偵察隊がロワソンを阻止している間にウェルズリーはドラボルドゥ指揮下の軍を8月17日のロリーサの戦いで破った。8月21日に英葡軍はジュノー指揮のフランス軍とヴィメイロの戦いに激戦を交えた。ウェルズリーの注意深い管理、強い指導力そして妥当な戦略で戦線を維持するフランス軍とその同盟軍をはねのけた。勝てたにもかかわらず、ウェルズリーは軍人として若すぎて、ポルトガルに新たに補強された遠征隊を指揮できないとみなされ、ウェルズリーの地位は、ハリー・バラードに替えられてしまった。バラードが死ぬと次はヒュー・ダルリンプルが任命された。一連の勝利で、物議を醸したシントラ協定に基づき、1808年8月、ポルトガルからフランス軍が撤退することになった。イギリス軍の司令官は、3万の精鋭を率いるジョン・ムーア卿を残して、シントラ協定調査のために本国への帰還を命じられた。 英葡軍とスペイン軍が勝利したことで、ナポレオン自身がイベリア半島に20万の兵を率いてゆくことになった。イギリス軍はブルゴス市近郊で攻撃(ブルゴスの戦い)したが、まもなく長い退却を強いられ、さらにサアグンの戦い、ベナペンテの戦い、カカベロスの戦いを挟みながら、フランス軍の追撃を受けた。1809年1月にア・コルーニャから撤兵して終わった。ムーアは「コルーニャの戦い」(en)として知られる戦闘中に市街防衛の指揮中に戦死した。僅か2ヶ月余りスペインにいて、ナポレオンは元帥に指揮権を戻し、自身はフランスに帰国した。 3月にスールト元帥は北の回廊地帯を通って2度目のポルトガル侵略に取り掛かった。 始めはミノ川でポルトガルの民兵に撃退されたが、チャベス、ブラガを攻略し、さらに1809年3月29日にポルトを攻略した。しかし、アマランテなどの都市のシルヴェイラの抵抗は、スールト軍をオポルトにて孤立させ、スールトは北ポルトガルの王になるか、この国からの退却かの賭けに打って出た。 その間、ナポレオンの勝利でスペイン軍を壊滅させたが、スペイン人をしてスペインにおけるフランスの敗北に大いに貢献することになるゲリラ戦法を開始させることとなった。ポルトガルではミゲル・ペレイラ・フォルハス「戦争大臣」が英国から送られた資金と兵力で国軍の再建を行っていた。1806年から示されてきた軍制改革が実行された。最初は2万人の常備軍と3万の民兵が召集された。その後、この数は常備軍5万、民兵5万に膨れ上がり、「オルデンナンサス」と義勇軍が加わった。 1809年4月にウェルズリーは英葡軍を指揮すべく、 に戻った。イギリス軍をその頃フォルハスと各地域の知事によって組織され、ベレスフォード将軍によりイギリス風の戦闘に合わせて改編されたポルトガルの連隊によって、補強した。これらの新軍は5月10日から11日のグリホの戦いと5月12日のオポルトの戦いでスールト軍を破った。北部の全都市がシルヴェイラによって攻略された。 新占領地が気になるポルトガル軍を離れ、ウェルズリーはグレゴリオ・デ・ラ・クエスタ軍に合流すべく、スペインに進軍した。連合軍は7月27日から翌28日のタラベラ・デ・ラ・レイラの戦いでホセ1世率いる王国軍を撃破した。そこは連合軍が、不安定さを露呈し、すぐさま西方へと撤退することとなった、高い代償を払って勝利をおさめた場所であった。タラベラの戦いの勝利でウェルズリーは子爵に叙された。この年、後にスペイン軍はオカナの戦いとアルバ・デ・トルメスの戦いで、ひどい惨敗を喫した。 スペイン軍との共闘がうまくいかなかったことと新しいフランス軍を怖れるようになり、ウェルズリーはポルトガル防衛を強化する決断を下した。リスボンを防衛するために、彼はネベス・コスタ少佐の計画を採用し、主要道と塹壕と土塁に沿って な堡塁線(162)を構築し、トレス・ベドラス線を形成した。 1811年7月にフランス軍はアンドレ・マセナ元帥率いる60,000の軍を以って再侵攻した。戦端はコアの戦いで開かれた。その後マセナは「ポルトガルで最悪の道」を辿った。9月27日のブサコの戦いで、有利な位置にいながら不注意な戦術で敗北を喫したが、英葡軍をトレス・ベドラス線まで撤退させた。10月14日のソブラルの攻撃の後で戦況が膠着状態に陥るほどに城塞は印象的なものだった。チャールズ・オマーンの記述によれば「10月14日濃霧の朝、ソブラルで『ナポレオンの潮』が最高潮に達し、そして引き潮が始まった」。ポルトガル人は前線で焦土作戦の対象となった。フランス軍は補給路の欠如と疾病のためについに撤退を余儀なくされた。 1811年初頭、同盟軍は新たなイギリス軍の到着で再度増強され、攻勢に転じた。フランス軍はカディスの包囲を解いた失策が一因となって3月5日のバロッサの戦いで敗北を喫し、マセナは5月3日から同月5日までのフェンテ・デ・オノーロの戦いが膠着状態に陥ると、ポルトガルから撤退した。マセナは25,000の兵員をポルトガルとの戦闘で失い、オーギュスト・マルモンと交代することになった。スールトはバダホスを威嚇するために南部から移動したが、ウィリアム・ベレスフォード率いる英葡軍とスペイン軍により5月16日アルブエラの戦いで追い返された。この血みどろの戦闘のあと、フランスは退却を余儀なくされた。