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信用買い残・売り残
戦争は一時休戦し、数では優勢でもフランス軍は優位に立つことはできず、スペインのゲリラ活動による圧力が増していた。フランス軍は350.000を超す兵力がスペイン軍(L'Armee de l'Espagne)にいたが、大半の20万を超す兵力が、実戦部隊よりもフランス軍の補給路防衛に当たって失われた。スペインは自由主義的な「1812年のカディス憲法」の草案作りに取り掛かった。
1812年の新年早々にウェルズリーはスペインへの同盟軍の再編を行い、1月19日にシウダード・ロードリゴの城塞化された町を包囲、攻略し、バダホスを4月6日に高い代償を払った襲撃のあと同様に攻略した。両方の町は軍に略奪された。7月17日、同盟軍はマルモンが進軍してきたのでサラマンカに進駐した。両軍はついに7月22日に遭遇した。サラマンカの戦いではフランスは壊滅的な敗北を喫した。ベレスフォード元帥は重傷を負った。フランス軍が再集結したので、日経225
はマドリードに8月6日入城し、ポルトガルに撤退する前にブルゴスに進軍した。
フランスの起死回生の望みは、1812年ナポレオンの悲惨なロシア遠征によって打ち砕かれた。対スペイン軍から3万の精鋭をロシア遠征に連れて行き、増援と交代が尽き、フランス軍の優位は、同盟軍が1813年に攻勢に転じたので、次第に維持がしがたくなった。
戦術的な動きとして、ウェルズリーは補給基地をリスボンからサンタンデルに移した。
5月末に英葡軍は北へと転じて、ブルゴスを奪取し、その際、英葡軍はフランス陸軍を側面から包囲し、ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)をサドラ川の谷へと追いやった。6月21日のビトリアの戦いでホセ1世の65,000の軍は、53,000のFX
、27,000のポルトガル軍、19,000のスペイン軍により退路が狭められた。ウェルズリーはフランス軍をサン・セバスティアンから追撃し追い払った。サン・セバスティアンの町は打ち捨てられ、火を放たれた。
同盟軍は退却するフランス軍を追撃し、ピレネー山脈に7月初めに到達した。スールトはフランス軍に命令を与え、反撃を始め、同盟軍の2人の将軍を翻弄しマヤの戦いとロンセスバリェスの戦いで快勝を収めた。だが、英葡軍に厳しく撃退され、勢いを失い、ついに7月28日から30日にかけてのソラウレンの戦いの同盟軍の勝利の後、敵の軍門に下った。
ピレネーの戦いと呼ばれるその週の戦いは、もしかしたらウェリントンにとって最良のものかもしれない。敵との数が拮抗し、ウェリントンは補給路からきわめて遠いところで戦っていたし、フランス軍はその領域を防御していたが、それでも戦争では稀な機動作戦、衝撃、砲火の組み合わせで勝利した。それは戦争の山場であり、このときウェリントンはポルトガル陸軍を「同盟軍の闘鶏」と評した。
10月7日、ウェリントンはドイツでの戦闘再開の報を受け取り、同盟軍は、ビダソア川を渡り、フランスの国境を越えた。
半島戦争はベラ峠、ニーヴルの戦い、バイヨンヌ近くのニーブの戦い(1813年12月10日 - 14日)、オルセの戦い(1814年2月27日) 、トゥールーズの戦い(4月10日)で同盟軍の勝利で行われた。最後の戦いは、ナポレオン流刑後のものである。
この戦争中イギリスはポルトガル民兵とスペインゲリラを支援してフランスの大軍を釘付けにした。フランス軍との戦闘でイギリスの正規軍が用いる装備より安上がりだったことでイギリスは支援を行った。このゲリラ戦は歴史上最も成功したパルチザンの一つで、ゲリラの語源になっている。
半島戦争は同時代におけるポルトガルの投資信託
な幕開けを表していた。リオデジャネイロへの宮廷の移転は、その後独立することになるブラジルの国家建設の始まりであった。宮廷、政府、陸軍からなる15,000人以上の人々がポルトガル艦船に乗り亡命できたことは、ブラジルとってはおまけであり、ポルトガルにとっては見せかけの恩恵であった。なぜならば、それは独立へのエネルギーを解放したからである。 不在間の王に指名されたポルトガルの知事には、フランスの侵略とイギリスの占領が続くために、僅かに影響していた。戦争大臣のミゲル・ペレイラ・フォルハスの役割は独特なものであった。ウェリントンは大臣を「イベリア半島でただ一人のまともな政治家」と見ていた。ポルトガル軍の参謀と55,000人の常備軍、50,000人以上の国民防衛隊「ミリシアス」と様々な数の郷土防衛隊「オルデナンサス」を(全体で10万を越えると目される兵力)創設を指揮した。1812年にロシアの宮廷大臣であるシュタイン男爵に送った手紙で、フォルハスは「焦土作戦」の採用が、ナポレオンの侵略を打破し領土守る唯一の方法として薦めた。ロシアのツァーリアレクサンドル1世は、ウェリントンのポルトガル軍戦略を模倣しナポレオンの大陸軍を飢えさせるために戦闘を避けるよう命令した。
フランス帝国との戦争で試練に晒され、訓練され、実戦経験したポルトガル本土残留の新しい階級層は、新生ポルトガル独立を主張する点で、本戦争における旧来の指導者層に多大な影響を与え、フランス革命に並ぶものでもあった。ベレスフォード元帥は1814年以後もポルトガル陸軍(隷下に160人ほどの英軍将校が中核となる)の司令官(国王がまだブラジルにいるので一種の植民地総督)として残留した。彼の元、ポルトガルの新政策が策定された。これはルソ-ブラジル連合王国のあり方、アフリカの植民地における奴隷供給問題、ブラジルの産業、ポルトガルとの交易など今後の国家計画が定まった。しかし、1820年までにこれら全てが維破綻した。ポルトガルの半島戦争に参加した葡軍将校は、イギリス軍人を追放し、8月24日にオポルトで自由主義革命を開始した。ポルトガルにおける自由主義体制の樹立は1832年から34年の内戦終結後に結実されることとなる。
新国王ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)は当初フランスとの協力関係で近代化と解放が得られると信じていた「アフランセサドス」(親フランス派)のスペイン人に歓迎された。一つの例が異端審問の廃止であった。しかし、聖職者と愛国者は人民を煽動し、実際にフランス軍が抑圧する事件(1808年マドリード)がおきると、侵略者に対して人民を団結させ勇気付けるまでに拡大することになった。スペインに残っていた者は、フランス軍に従ってフランスに脱出した。画家のフランシスコ・デ・ゴヤはこれらアフランセサドスの一人であり、戦争後に、告発されたり可能性として考えられるリンチを受けないようにフランスに亡命しなければならなかった。
独立支持派は伝統派と自由派双方にいた。戦争後、外国為替証拠金取引
フェルナンド7世(待望の人(後に「彷徨える国王」))が、各地の連合を纏め上げフランスに抵抗すべくカディスで召集した独立議会が行った社会的前進を無効としたために、カルリスタ戦争で激突することになった。絶対君主制を復活させ、自由主義を標榜する者を全員起訴して処刑し、最後の悪行は、愛娘のイサベル2世のために王位継承法を変えたことであり、従って旧法での王位継承者である王の弟ドン・カルロスの支持者との内戦の世紀が始まった。従って、スペイン人が起こした独立戦争は、実際は、外国の占領よりも、専政、飢餓、破滅、死の方を選択し、スペインは百年も後退したのである。しかし近代化に対するスペイン人の渇望は、やがてリエゴ革命等によって現実化されて行くのである。
自由主義議会は1812年3月19日制定の1812年スペイン憲法を可決した。それらは後に、王によって、破棄された。
一方、植民地だったスペイン領アメリカでは、クリオーリョが各地の市参事会にてフェルナンド王に対して忠誠を誓う連合組織を結成した。この自治の経験と、フランシスコ・デ・ミランダらによる独立への動きが元になって後に、自由主義者(リベラトルス)にスペイン領アメリカ植民地の独立を促すことになった。シモン・ボリーバルもその一人である。
フランス軍はカトリック教会の資産運用
の財産を多く略奪した。教会と尼僧院は、馬小屋や兵営に使用され、スペインの文化遺産が深刻な打撃を受けることになる美術品は、フランスに送られた。加えて英葡軍がスペインの都市と農村を略奪した。戦争の影響は、スペインの経済を著しく低下させ、19世紀の停滞をもたらすことになる。
メディナデルリオセコの戦い(1808年7月14日) フランス軍がスペインで初めて大勝利を収めた。イベリア半島に保安隊を創設した。
バイレーンの戦い(1808年7月19日) デュポン将軍が総指揮を取るフランス軍23,000名が、ハエーン地方(アンダルシア)のバイレーンでカスタニョスが指揮する3万のスペイン兵に包囲された。5回出撃を試みて、フランス軍は降伏した。
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